「いのちの場所」(著・内山節)
3つの考え方で物事を見るといいと「ローマ人の物語」の中で塩野七生が書いている。
3つとは「法律」「神」「哲学」だ。
「哲学視点」でとらえたこの本は「いのち」をテーマにその生きることとは何かを語る。
東京と群馬の二重生活をしている著者は群馬県上野村の人たちと接して生きるという意味が深化した。
都会では人間関係は極めて薄い。村では人間同士の関係で成り立つ生活がある。
重要なのは自然を感じる世界だ、都会では自然を感じることは少ないが村では自然との一体感が人を包む。
都会と村との比較の中で著者は生きるとは何かを問い詰めその中で「いのち」に考えが及んでいく。
「いのち」とは今で「生きる」とは未来だ。
現在のいのちが自然との一体感の中にあって生きる意味があれば不安はないという。
自然との一体感のない中で真剣になればなるほど未来は不安にみちている。
村での生活と都会での生活を考える中でこの本は個人や国家に及よんで展開する。
国家とは何か、個人という考え方はいつごろ生まれたのか、哲学的思考が神と法も語る。
自分が死んだらすべてが無くなる、人間は国家がない時代も生きていた。国のために死ぬなどの思想は近代になって出てくる。
こんな哲学をボクの文章力で表すことは永遠に無理だと思う。
その問いに著者は「いのちとは何かは自明のものではない、理論的に永遠に自明にはならないもの、文化的文脈の中で諒解するものがいのちだといってもよい」と答える。
ボクは自然の中に立つ自分も都会の便利さの中にいる自分も自分であると認識している。
この本が教えるのは自然の中にいる自分は都会にいる自分より純化されているということだ。ボクにとってヨガや瞑想はそんな場を提供している。
諒解する自分であるために暮らしの中で自分のいのちに沿った生き方をみつけていくことがボクの生き方になる。
自分のいのちは自分だけのものではなく、他者や自然や、思いを寄せる人々と共有していくものだと諒解していく生き方だ。
深く静かな思考に導く哲学の時間の中で「おのずから」という言葉がボクの中に残った。
生と死を包み込む風土の中に「おのずから」を諒解する自分であることができるだろうか、
著者の問いに対する答えをみつけていきたいと思う。