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「一路」(著・浅田次郎)。
この本を読書家の友人が教えてくれたのはBSの連続放送初回目が終わった頃だった。
「鉄道員(ぽっぽや)」、「蒼茫のすばる」、「壬生義士伝」,等、幾冊かの本を読んでいてこの作者の軽快な文章にはいつも感心していた。今回も裏切られる事はなかった。
TV番組進行に追いつき、追い抜き読むうちに、TVの役者その者の美男美女が本の中でもイメージされて、この物語に引き入れられた。
TVはイメージ形成に大きな影響力を持つ。
信長が高橋幸治、家康が西田敏行、秀吉が竹中直人だったりする。
NHK大河ドラマを観続けていると一つのパターンが見えてくる。日本国民が安心してみられるのは忠君という柱があることだ。
いい家老と悪い家老がいる。主人公は正義の味方で悪い家老を悪いと知りながら政を任している君主にいい家老の力を借りて正道を建言する。そんな展開がある。
「一路」も同じ流れにある。一路は江戸初期から参勤交代の時の最高責任者である共頭の家に生まれた。一路という名前はお役目からつけられたのだ。
父親の突然の死によって一路は共頭としての役目を負う。
維新を目前にした14代将軍家茂の時だ。岐阜県美濃の国から中山道上って遂行する。よく知っている東海道ではないことが新鮮だ。
悪家老がお家乗っ取りを図り、主人公の一路が宿場毎に起きる難題を解決していくという展開になる。主君は何事にかけても「大儀じゃ」「祝着であった」「よきに計らえ」で通していく。クライマックスになると君主は名君の姿を現す。うつけを装うほどの器の持ち主であったのだ。
NHKのドラマ化にはうってつけの本である。随行する年老いたウマと若いウマの会話が浅田流を形成する。
諏訪から甲州街道で江戸に向かうのではなく軽井沢から高崎を通って大宮、板橋から江戸に入る。
今なら更科の起点で渋滞情報を聞き、軽井沢方面か甲府方面かを判断して道を選ぶ、何時間かで都内に入るが当時はそこからも幾泊かの宿場があった。
ゆっくりした旅気分が味わいながら浅田文学を堪能した。
by willfiji
| 2015-08-31 09:54
| 読書
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