「国を蹴った男」(著:伊東潤)全5篇の小説は権力にへつらうことなく生き、良とするものを曲げず、誇りを持って筋を通した「唯々諾々(いいだくだく)」を非とする男達の物語だ。
主人公達の最後は権力者によって命を失う。その死は見事に晴れやかだ。
リタイヤしてから僕の胸に「唯々諾々」という言葉が響いた。その意味は、「事の良し悪しに関わらず、ただ人の意見に従って言いなりになること」。
なんと「唯々諾々」の人が多いのか?自問自答が続いた。 「それが人なのだ」と思うのに時間がかかった。一方、「唯々諾々」に流されずしっかり生きている人も見えてきて、一生付き合おうと思う事ができた。
「唯々諾々」の方がうまく世間を渡り歩けたと思うがそんな自分は許せなかった。「唯々諾々」の部下もいたが注意していた。快くなかった。「唯々諾々」の部下を持つ方がやり易いが企業が成長するとは思わない。背筋もむずむずしてしまう。
この本の主人公達は僕より何倍も唯々諾々に反発して生きた人達だ。
戦国武将柴田勝家が裏切った利家を語る。
「人とは真に浅ましき生き物だ、どれだけ多くの武士が死を前に醜態をさらしてきたか、なんとこの世には「唯々諾々」の人が多いのか?わしはそれを嫌というほど見てきた。利家のように覚悟なきものは、死を前にすれば恩義などを忘れ、生き物としての本能に従う、
勝つと思う方へつく」。
この本は「義」についても考えさせる、「義」は唯々諾々では成り立たない。「義」を重んじる者に野卑な気持ちは微塵もない。
秀吉は「唯々諾々」で出世して天下を取れば「唯々諾々」の人を重用した。誇り高い利休は切腹した。
秀吉は偉人と称えられるが地位が高まるほどに
下卑た顔付きになったようだ。人間、年を取ると人柄が顔に出る。
「粗にして野だが卑ではない」、国を蹴った男達はそんな顔付きだったと思う。
僕も年を重ねて
いい顔になっていきたいと願うばかりだ。